リレー・インタビュー最終回は、メンバー5人(伊藤ふみお、津田紀昭、平谷庄至、コバヤシケン、田中‘T’幸彦)による全員インタビューをお送りします。メンバー同士の会話だからこそ聞けるあんな話こんな話、お楽しみ下さい!!
一同 よろしくお願いします。
ふみお
はい。行っちゃいました。『RAMPANT』のツアーは北は北海道、南は鹿児島まで。40ヶ所だっけ?
平谷
41でしょ。
ふみお
長かったね~。10月に始まって終わったの3月の終わりでしょ。
平谷
1月にスポッと3週間ぐらいの時間があって、みんなで頑張って作ろうかって。
ふみお
そうそう。そのツアーは週末が多かったんで、平日は新作のリハーサルしてね。
ふみお そうです。再結成してからは新人バンドだと思って新しい気持ちでやってるんで。石の上にも三年って言葉があるように、3年はがっちりやらないと。これから先のKEMURIの礎をしっかり作ろうってね。でもまさか3年間でオリジナルアルバム3枚、カバー、ベスト、合計5枚も出すとは思わなかったけど(笑)。やっぱりね、大変は大変なんだけど、それをみんなでやったっていう礎を作りたかったんですよね。
ふみお
ずっとツアーを続けていたから、それが反映されているのかもしれないですね。テンポもね、どんどん速くなったり(笑)。
平谷
ドラム的には楽しくて、そして大変です(笑)。
津田 あ、わかります?
ふみお 不思議なバランスですよね~。
津田
あのテンポ感は意識しましたね。スピード感はあるんだけど、ただ速いってだけじゃなく、腰にグッとくるようなスピード感。
ふみお
津田節ですよね。津田節でありつつ新しい。そういう各々の個性を思い切り出そうって変わってきた。実際、各々が曲を持ってくる時も、自分の中で一番いいと思ったものをぶつけてきてると思いますよ。でね、それをバンドでコミュニケーションしながら作っていく。コミュニケーションが増えたんですよ。今まで僕は、なるべく作曲者が提示してきたものを崩さずにやろうって気持ちだったんだけど、今は1曲に対していろいろ話をして。最もコミュニケーションがとれたアルバムでしたね。
津田
津田 再結成後はホントにいいコミュニケーションがとれてるしね。
津田
自分の曲ができたのは思いのほか早かったんだけど、みんなと合わせる時間がだいぶ先になって結局バタバタ(笑)。でも前作より僕はスムーズにできたと思います。今回T君の曲も多いし。やっぱりね、再結成してから自分のカラーを自然に出せるようになった気はします。安心して出せるっていうか。だから曲もスムーズに作れたし。
田中
いつも大変なことは大変なんで、今回が特別ってことはそんなにないんだけど、やっぱりみんなのカラーがより出しやすくなってるかな。それはバンドのムードがいいからなんですよね。バンドのムードがそうさせてるっていうか。
平谷
気がつくと役割が見えてきたというかね。
平谷 はい(笑)。
田中 切ないって言われるんですよ。メジャー・コードなんだけど切ないって。
コバケン ちょっといつもとは違う感じの曲が作れたかなって。あとホーンのアレンジに関しては空間を意識して、「空間を創る」ってイメージで。
コバケン
アレンジの面では、今回、須賀ちゃんもガッツリ参加して新しい感じになってると思います。
津田
ギターもだいぶ重ねた曲あるもんね。
田中
逆にアコギだけとか。
平谷
前作のツアーやって、そのまますぐにレコーディングで。ホントに転がり続けてる感じだったので、その空気感は出てると思います。
ふみお
あとさ、曲作りの面では各々が自分がいいと思うことをぶつけてくるんだけど、なんか共通点があるの。まず伊藤ふみおが歌うってことを前提にして曲を作ってるだろうし、あとメンバーは各々、生まれた場所も経歴も音楽の趣味も違うけど、でもいいなって思う感覚は近いような気がして。長く一緒にやってるからか、違う趣向のサウンドを出しても滲み出でくるものが似てるんだよね。で、以前は音楽的な趣向の違いをあまりいいものとして捉えてなかった。庄至君の曲は凄くポップだから、日本語の歌詞をつけたらポップになり過ぎちゃうから英語にしたり。でも今回の庄至君が書いた「O-zora」は凄くポップだけど、よりポップにしようって日本語の歌詞にした。
ふみお うん。自然にそれがやれるようなバンドになったよね。
ふみお 今作で一番出したいと思ったことは、「思考を停止するな」ってことなんです。メッセージはそこ。例えばね、一個いいと思ったことがあっても、価値観は日々変わり続けていくことだから、その中で柔軟に変えて、変わりながら進んでいくということが大事なんじゃないかって。一個型を作ったらそれで安心するんじゃなく、変えちゃいけないことと変えなきゃいけないこと、それを常に考える。疑いもする。そうしながら進んでいく。そういう気持ちを強く込めてる。
ふみお そうですよね。ただね、逆から言えば、新しい価値観を見つけられるっていうことなんですよ。それって凄く希望があるってことですよね。迷ったり考えたりしてるのは、新しいものを掴めるって信じてるからだし。
津田
だから超不安ではあったけど(笑)。
平谷
ホントに録り終わるのかっていう(笑)。
津田
でも意外とできた。ドラムから録ったんだけど、庄至君が頑張って意外とスムーズに。
平谷
なんとかやりました(笑)。
ふみお
ベスト盤はツアーでやってた曲を選んだから。今も生き続けてる曲を今のメンバーでやりたかった。
津田
このメンバーでライブでやってる曲を録音して。スピード感が増したよね。
ふみお
グルーヴ感もね。
ふみお
全然ない。悲しいぐらいないです(笑)。曲も歌詞も古臭いとは全然思わない。昔の自分が書いた歌詞に今でも共感できる。特にこのベスト盤に入れた曲はそういう曲ばかり。ライブでずっとやっているのは古びてない曲だからだよね。今回、PVを作った「PMA (Positive Mental Attitude)」は、オリジナルは『77 Days』(1998年)に入ってた曲だけど、僕の記憶が正しければ、そのアルバムの中で最後にできた曲なんですよ。
津田
そうそう。最後の最後にできた曲。
ふみお
最後にできた曲なんだけど、「ポジティブ メンタル アティテュード」って言葉がメロディから聞こえてきたの。結成当時からPMAはKEMURIのテーマではあったけど、KEMURIのテーマ曲を作ろうとか、そんな大きな思いもなかったし深く考えたわけでもなかった。ただメロディから自然に言葉が出てきた。歌ってみると、声を強く出せるの、大きな声で。Aメロからサビまで全部をウワーッて。凄く力を込めて歌える。そういう楽曲なんだよね。だから今まで残ってきた。今も変わらず歌える。
津田
キタっ(笑)。
平谷
前に言ったことと変わってるかも(笑)。
ふみお
まぁ、思うことは日々変わるものですよ(笑)。僕が言いだしっぺだから僕から言うと、結成当時、まずブラッドに、PMAってことを歌いたいって言ったの。その時はまだなんにもなかったから。誰もKEMURIのことを知らない、曲もそんなにない。そんななんにもない時でも、人が笑おうが、自分が諦めそうになろうが、本当に叶えたいことを心に強く持とうって。そうしたらそれは絶対に叶う。そのことを信じて暮らすことがPMA。それを歌いたいってみんなに言って。
津田
まさに僕もそう思います(笑)。
津田
再結成する前は結構いろんなこだわりがあって。例えばさっき話に出たけど、庄至君の曲は僕からしたらポップ過ぎて「ちょっとできないでしょ」ってことがあったりしたんだけど、再結成してからは受け入れられる余裕っていうか、「全然いいじゃん」って思えるようになった。今まで否定してきたことがどんどんいいものに見えてきて。それが僕にとってのPMA。つまり、いい方向にしていこうっていう気持ちを強く持っていれば、できることがどんどん増える。この年齢になってまた新しいことに気付けて。KEMURIっていうバンドとメンバーを信じて楽しく進んで行こうっていうのが、今の僕のPMA。
田中
PMAってくさってる時こそ思うべき言葉で。呪文って言っちゃアレだけど…、
ふみお
まぁ、呪文だよね。
田中
だからやっぱり軸ですよね、心の中の。
コバケン
僕にとってのPMAは、この前のインタビューで話したこと全てがPMAではあるんですが…..。あと例えばライブで、僕ら演奏してる側でも、お客さんがKEMURIの曲でウワッて前向きになってくれてるとしたら、自分もそれと同じような感覚なんだと思う。なんていうか、そのウワッとなる瞬間を信じて日々の生活を頑張るわけで。だから僕らのライブがPMAで。
平谷
なんかほら、僕らはKEMURIであって、もしかしたらお客さんから見たら、KEMURIがPMAじゃないですか。
ふみお
なるほど。
平谷
だからライブの時とかね、僕ら自身がPMAじゃなきゃマズイじゃないですか。
ふみお
確かに。
平谷
でも、いい時ばかりじゃなくてしんどい時もあるわけで。そんな時も「さぁ、笑うよ」ってことがPMA。僕らもお客さんも日々の生活にはしんどいこともあるわけで、でも「さぁ、笑うよ」って。そういうライブをやるのがKEMURIだしPMAだなと。
平谷 そうそう。それができるのがKEMURIなのかなぁって。
津田
昔行った時と印象が変わらないとこが多くて。日本だと結構デカいとこでやれるようになってるけど、アメリカはライヴハウスだったりバーだったり、50人ぐらいのとこもあって。なんかね、初期の頃のガムシャラにやってたことが蘇りましたね。この気持ちを忘れちゃダメだなって。
ふみお
昔の友達や前に観てくれてた人が来てくれたり。コロンビアから、ニューヨークから、カナダから来てくれたりね。感動したね。日本語の曲は日本語で大合唱だし。KEMURIの歌の中ではさ、「行動したことは自分に返ってくるんだぞ」って歌ってる曲もあるけど、1stアルバム作って、SKA AGAINST RACISMツアーに行って、あの頃にアメリカ各地にぶん投げてきたことが確実に自分のとこに戻ってきてっていう。嬉しくもあったし、ちょっと恐ろしくもあった。だってね、今までKEMURIが単にこなすだけのライブをやってきてたら、あんな感動的なライブには絶対にならなかっただろうしね。一つ一つの積み重ねが絶対に自分達に返ってくるんだよね。初日のサンフランシスコのライブが終わった夜、興奮して眠れなかったもん。まぁ、ただ日本での長いツアー終わって、レコーディングして、アメリカでツアー。やっぱりキツイとこもあったわけですよ。でもね、庄至君が言ったように「さぁ、笑うよ」、だよね(笑)。
津田
笑うしかない(笑)。
ふみお
それもさ、マイク・パークっていう人ありきのとこもあるよね。あとダン。ダンって運転してくれた友人で。いろんな人がいて、いろんな人に助けてもらった。(注…ダン=Dan Potthast。MU330のヴォーカル&ギターでKEMURIとは古くからの友人)
津田
キャンプとかね。
ふみお
そうだ、キャンプだ。
津田
ライブ2本やった後、5日間空いたんですよ。2本やってノリにノッてるときに(笑)。
ふみお
丸々数日空いて、とにかく面白いことをプランニングしてやるってマイクが言って。それでキャンプに行ったんだよね。
平谷
昼間はあったかいんですよ。
ふみお
素晴らしい景色でね。
平谷
でも夜は寒いんですよ(笑)。
ふみお
でも大丈夫だ、キャンプ楽しいしぞってマイクは言って、マイクが言うならってキャンプに行って。マイクはテントとか全て準備してくれたしね。ただ、今夜は凄く寒くなるらしいから覚悟しとけよって。そしたらホントに寒い(笑)。
津田
しかもマイクは帰っちゃうし(笑)。寒くて眠れなかったですよ。
コバケン
僕なんか夏用の寝袋にあたっちゃったし(笑)。
津田
僕はもともとキャンプなんか好きじゃないし、だいたいテントで寝たことないし(笑)。防寒着かなり持って、パーカーからダウンまで。全部着込んでニット帽もかぶって、寝袋の間に毛布まで挟んで。それでも寒い(笑)。風がビュンビュン入ってきて。隣のマネージャー見たらグーグー寝てる。泣きそうになった(笑)。
ふみお
寒いから酔っ払って寝ようって呑んで。それで寝袋に入ってジッパーしめようとしたら、どういうわけかしまらなくて。そのうちバチッて壊れて(笑)。無理矢理ジッパー手で押さえて。風ビュービューで寒くて。横の庄至君はガーガー寝てるし。スゲエって思ったね(笑)。
平谷
僕はキャンプ場のお兄さんもやってたことあるんで。
田中
僕も寒かったけど、キャンプも初めてじゃないし平気でした。コバケンと同じテントだったんだけど、ペラペラな寝袋で唇青くなってたよね(笑)。
コバケン
夜が明けた頃になってやっと眠れました(笑)。
津田
でね、続きがあってね。翌日の昼間にダンの家に行くことになって。ビーチ・パーティーやるからって。
ふみお
サンタクルーズの友達みんな呼んで、「ビッグ、ビッグ、ビッグ・ビーチ・パーティーだ!」って言ってたんだけど…。
津田
バーベキューするって言ってたし、肉とか出てくるんだなって楽しみにしてたら、マシュマロだけのパーティーで(笑)。
ふみお
マシュマロとクッキーのパーティー。しかもこじんまりした(笑)。
津田
しかも寒かった。その夜もキャンプで。俺は車で寝ましたけどね(笑)。
ふみお
まぁでも、楽しかったし笑って話せるよね。
ふみお いい思い出ですよ(笑)。でもホント、今回もマイクにはレコーディングでも本当に世話になったし、共有するものもたくさんあるわけだし。
津田
KEMURIをやるにあたって凄い参考にしたし影響受けたし。その人達が今もやってて僕らも再結成して。一緒に廻れるってことは凄いなと。だから懐かしいってものじゃないんですよね。みんな「今」のバンドだから。
ふみお
そうそう。リスペクトは勿論してるけど、実際に今も凄くいいライブをするからね。今がいいから、だから観てほしい。
平谷
走ってる途中なんですよね。この次もまだまだあるぞって、そういうアルバムだし、そういう気持ちです。
津田
今までKEMURIを知らない人には入口になるし、今まで聴いてきた人には新しいものを感じることができると思う。そんなアルバム。
ふみお
うん。新しいね。
コバケン
レコーディングのたびにこうしたらよかったって思うことはあるんですが、それがどんどん減ってる感じで。減ってるっていうか、膜がとれていく感じ。よりダイレクトにやりたいことができている気がします。それはライブも。
田中
前作も自由でバリエーションあったけど、今回はまた違った切り口で、また違う感触のバリエーションが出せたのではないかと。やり続けていくことによって新しいことができるっていう手応えを実感してます。
ふみお
新作もベスト盤も、このメンバーで、2015年の音で鳴り響かせることができた、そこに意味があると思ってます。
ふみお 亡くなった森村亮介というトランペッターが「SONG FOR MY “F”」っていうタイトルの曲を作ってて。彼に「その“F”はなんなの?」って訊いたら、「FamilyとかFriendsだ」って言ってたんです。それで、今年は彼の13回忌でもあって、いろんな意味で彼に対するオマージュっていうか。「今もKEMURIはあるし、楽しくやってるぞ」っていうことで、「SONG FOR MY “F”」から『F』。それに、家族(Family)や友人(Friends)を大切にするのは勿論、牙(Fung)や世界に対するFuck Youといったアティテュードは失わず、未来(Future)へ向けて、信頼(Faith)を失わず、といった時間が経ったからこそついてきた“F”も加えて。それでこのタイトルにしました。
インタビュアー:遠藤妙子
リレー・インタビュー6回目、ラストを飾るのは、勿論リーダーでヴォーカリストの伊藤ふみおの登場です。
伊藤ふみお そうです。僕は単身でアメリカに行こうって決めて、挨拶がわりみたいに音源を持っていこうと。自分の曲をレコーディングするつもりで曲を作ったんですが、当時からブラッド(津田)とは友達で、僕の曲よりブラッドの曲のほうが良かったんですよ。で、ブラッドの曲を録音して。その時にブラッドと、「管楽器も入れたいね」とか話して管楽器吹ける人を探してバンド・サウンドで録音して。雰囲気も凄くいいし、「バンドみたいにできたらいいね」とは言ってたんです。僕はアメリカに行くことが決まってたから、たまにメンバーがアメリカに来たりとか、まぁ、そういうことができたらいいねって言ってて。で、僕がアメリカに行く前にパーティーをしてくれたんですよ、行ってらっしゃいパーティー。ブラッドがやってたAggressive Dogsも出てくれて。その時に録音したメンバーでもライヴをやろうってなって、バンド名つけなきゃってことになって。なんか、バンドみたいだけど実態はないじゃないですか。それでKEMURIって慌ててつけたの。
伊藤ふみお もう、軽いですよ(笑)。
伊藤ふみお いや、だってね、ブラッドの曲のほうがカッコよかったのは火を見るより明らかだったから。
伊藤ふみお 前にやってたバンドが志半ばで解散したし、やっぱり音楽をやりたいって。あと暮らすつもりで。グリーンカードとってアメリカ国籍をとろうって思ってた。なんかね、自分自身があんまり日本にフィットしてないような感覚があって。それでアメリカに住もうと。とにかくアメリカ行っちゃえ!って。
伊藤ふみお 違いましたね。もっと軽いノリというか。僕がアメリカに行くってことから始まったし、デモテープ録ったお金を親戚から借金してたんでどうやって返すか考えてたり(笑)、アメリカのこと考えてたり、いろんなこと考えてたんで。ガッツリとバンドを結成っていう感じでは全然なくて。
伊藤ふみお 楽しかったですよ。まず見てくれが怪しかったのか入国で3時間ぐらい足止め受けて、へとへとになってたら友達が迎えに来てくれて。友達の車に乗ったらラジオからRANCIDの「TIME BOMB」が流れてきて。「わ、スカじゃん!ラジオで流れるぐらいスカは人気あるんだ!」って。スカのブレイク前夜ですよね。そうやって僕のアメリカが始まって。当時はホントにスカやスカパンクがブレイクする前夜で。今度、9月に日本で一緒にツアーするREEL BIG FISH、LESS THAN JAKE、SKANKIN’ PICKLEとかいろんなバンドがL.A.に住んでて。まだ200人ぐらいの小さい会場でやってたんだけど、でも人が大勢集まって、まさにこれから始まるって時期で。
伊藤ふみお そうです、まさに。
伊藤ふみお ホントに。しかもスカ・ナンバーでね。運命かっていう。それがきっかけで今に至ってる感じですよ。
伊藤ふみお 7ヶ月で帰って来ちゃった(笑)。アメリカでいろんなバンドのライヴ観て、友達になって、活動のノウハウも見て。やっぱり自分でバンドをやりたいなと。あとロードランナーから契約の話がきたので、コレはバンドをちゃんとやろうと。
伊藤ふみお でもね、当時のロードランナーってニューヨーク・ハードコアを結構出してたんですよね。あとロードランナーのジャパンができたので、日本のバンドもリリースしようって。
伊藤ふみお 当時はまだほとんどライヴもやってないしね。あ、当時ね、レピッシュのライヴに出させていただいたことがあるんですよ。マグミさんがKEMURIを面白いって思ってくれて。知名度とか関係なく、ほとんどライヴもやったことない僕らを出してくれて。感謝してます。で、ロードランナーが決まったし活動をしていくんですけど、まだ当時はホントに煙のような状態で。ツアーが決まってるのにドラムが急に抜けたり。ドラム探して、平谷庄至に出会ったわけです。メンバーは固まってきたんだけど、なんかわかんないけど面白そうだから手伝ってみようかなって感じだったと思いますよ、みんな。軽い(笑)。とにかくね、楽しそうなことはどんどんやってみようって感じだった。
伊藤ふみお そうですね。
伊藤ふみお へー、覚えてるんだ。P.M.A.は、前向きなことしか歌わないって決めていたので。僕はその前のバンドの時は、時の権力者に対して皮肉ったりすることが大好きだったんだけど、そういうのはやめよう、真正面から向かえるようなことを歌っていこうって。あと当時も若くはなかったんですよね、30才に近かった。だから最後のスタートっていうね。本気でやらなきゃって気持ちも当然あって。夢は抱えきれないほどあるんだけど、失敗はできないって気持ちもあった。出会う人間って結構似たもの同士が出会うものでしょ。平谷庄至も若い時に一度メジャーでデビューして解散して、その後はドラムの仕事をやってた。ブラッドもAggressive Dogsを抜けた経験があるし、僕も前のバンドが解散してるし、各々いろんな経験をしてKEMURIで出会った。そういう似た経験をしてきた者が集まったんで、そういう話をまずしたんですね。前向きな歌にフォーカスして真正面から歌っていく、そういうバンドにしていくって。
伊藤ふみお そうですよね。歌いたいこと、届けたいことだけを歌いたいってね。だから僕が歌ってること、今も根本のとこは全く変わってませんよね、悲しいぐらいに。
伊藤ふみお スカパンクそのものができたばかりのジャンルだし、決まりごとはないわけでね。スカパンクって自由でハッピーでみんなが楽しめて、そういう音楽だと思うので。そこにいろんな音楽が混ざっていくのは楽しかったですしね。でもやっぱり難しかったですけどね。最初、メンバーは、スカパンクに自分を合わせることに必死で、なかなか自分のカラーを出せなかったかもしれない。最近になってやっと…。最近、感じるのは、お互いをある程度背負って進んで行こうって意識があるなと。お互いを受け入れるっていう。例えば平谷庄至のドラムは元々いわゆるパンク好きのドラムではなかったかもしれない。でもKEMURIのベーシックにあるものはパンク的なアプローチのスピーディーな曲で、平谷はそれをより良いものにしようと自分の引き出しにあるものを持ってきて広げていく。そういうことができるようになった。
伊藤ふみお そうそう。長く続けるってことは、新しいことも増えるってことですよ。
伊藤ふみお あのツアーは毎日移動とライヴで、9日間連続とかね。マイク・パークの元に集まったバンド達だからハッピーで楽しくて。会場も大きいとこが多かったですね。びっくりしましたよ。KEMURIを知ってる人なんてそんなにいないのに大歓迎してくれて盛り上がって。「これでいいんだ」って確信を得た。例えば自分が大好きだったTHE CLASH、Bob Marley、THE SPECIALS、ああいう人達にちょっとだけ近づけた気がした。
伊藤ふみお そうですね。意識を持った市民の集いとかじゃなく、音楽があって、みんなで楽しんで。そこにメッセージがあって、何かを感じて自分の中に持って帰る。僕が音楽を作っているのは、作った音楽と共に生きているっていう感覚があるし、聴いてくれた人も各々が僕らの音楽と共に生きてくれたらこんなに嬉しいことはないし。その時その時の欠片が集まって大きなものになっていく。いろんな場所に行っていろんな人がいて。そうやって思いが繋がっていって…。そういうことは実感していったかな。
伊藤ふみお それは一切変わらないです。海外へ行く、アメリカでやるってことは。それをやらないとダメだって思ってる。
伊藤ふみお ホントそうなんですよ。海を越えて繋がれる。それはホント楽しいことだし、同時に使命だと思ってる。やりたいことをやれない状況の人もいる中で、僕らはやれる状況にある。好きとか嫌いとかそんな次元じゃなく、ある意味では僕らの仕事で。仕事だし使命なんだと。
伊藤ふみお フジロックにも何度も出させてもらって。ツアーでもいろんなとこに行きましたしね。スカパンクが盛り上がって、新しいことをやっている、新しい音楽を作っているって自負はありましたね。その前の80年代のバンドブームの頃とはちょっと違って、英語で歌ったり、洋楽とリンクさせたり、海外と同時進行で進んでいったり。面白い時代だった。ただね、そういうことは上の世代が少しずつ切り拓いてきてくれたことなんですよね。自分達だけがやってきたわけじゃない。そこを意識して感謝しないとね。当時は面白い時代といえどもブームでしたからね。ブームの中に飲まれたらダメだ、しっかりやろうって意識はしていて。説得力のある歌を作って、一人一人が意識して立っていかないと絶対に長続きしないなって。結果的には淘汰されたバンドもいたしね。
伊藤ふみお 2000年代に入って熱狂の時期は終わりつつあるんだってことは感じました。解散したり休止したりするバンドも出てきたし。そこでね、KEMURIはいい曲を作っていこうってメンバーに言ってたんだけど、なかなかそういう言葉も届かなくなっていった。KEMURIはライヴでは観客はたくさん来てくれてたし、KEMURIはどうあっても大丈夫だろうっていう空気がメンバー間にあった、悪い意味でね。すると一つ一つが乱暴になっていった。コミュニケーションにしてもライヴの演奏にしても。各々で考えてることはあったと思うんですけどね。なんかね、自分達に甘えてたというかね。ミリオンをとったアーティストでもないのに横綱相撲をしていたっていうか。もっとアグレッシブになっていかなきゃって話をさんざんしてたんだけど…。そういうキツい時期でしたね。とにかく僕は音楽的にちゃんとしようって言ってて、それは今の自分達を出すことは当然なんだけど、ずっと変わらないことを自覚して大切にして繋げていく。僕はそれが音楽的なことだと思っていて。そういう為にP.M.A.だって掲げているはずなのに、バンドの実情は変わってきて。それはつらかったですね。
伊藤ふみお ナニクソ!よりも、みんなたぶん心が折れちゃったというか。平谷も大怪我をしたし活動は休止して。
伊藤ふみお ブラッドが作曲した曲だけど、実は最初、平谷が書いてきた曲にあの歌詞をつけたんです。平谷が作ってきたメロディから言葉が引き出された。平谷も事故で怪我して入院して。僕は何度も何度も病院に行っていろいろ話をして。その会話があったからこそ「白いばら」が生まれたんですね。で、レコード会社はそれをリード・トラックにしようって言ったんだけど、メンバーが難色を示した。平谷には申し訳ないけど(笑)。たぶんね、平谷が作ったのはもう少しポップだったと思うんですよ。それより、KEMURIならではのスピード感ある曲にしようってブラッドが改めて作曲して。歌詞はほぼそのままで、平谷も一切文句は言わなくて。
伊藤ふみお 曲がバンドのムードを切り拓いてくれるっていうことを、凄く強く感じましたね。
伊藤ふみお このメンバーでKEMURIとしてやることは全部やったなって。休止を終えて活動を再開した時も、ガラッといい空気に変わったわけではなく。コミュニケーションを深くとれるようなこともなかったし。ただ、やれることはやろうって各々が思っていた。未来を考えることより、とにかくやれることをやろうっていう感じで。だから解散を決めたんです。とにかく最後までKEMURIのことだけ考えて、いいライヴにしていこうって。実際、そうなったと思います。最後の時までやれることを全部出し切ろうって。いいツアーだったと思います。
伊藤ふみお そうですね。全てを出し切ったわけですからね。
伊藤ふみお 凄くいいですね(笑)。
伊藤ふみお みんな上手に気を使ってるんですよ、伊藤ふみおに(笑)。気を使ってるっていうか、愛してる。僕もそう。メンバーを愛してる。そしてKEMURIを愛してる。愛に溢れてる。そしたらね、自分のやりたいことが、よりできるんですよね。KEMURIはずっとやってきた歴史があるわけだけど、このメンバーになってからはまだ3年目だからね。本当に一つ一つ、いちいち話をしてやってるんですよ。そういうことの積み重ねですよね。大事なのは昔がどうだったかより、これからどこに行きたいのか。それをする為に今をフォーカスするっていう。今は未来の為にあるっていうね。
伊藤ふみお そうそう。今の積み重ねで未来が作られたり、メンバー一人一人がいてKEMURIという音楽が作られたりっていうね。なんかね、メンバー間でも各々の違い見つけるより、理解できる共有点を一つでも増やしていってる感じで。そういう共有点って、いくら音楽の趣向が違うメンバーが集まってても、行間から滲み出てくるんですよ。そういうものって海外でも伝わるもので。人と人が繋がるってそういうことなんだよな~。曲作りにしても、その人にしかできないことがあって、それがKEMURIの中の一つの欠片だとしても、最大限に活かす。一行の文章、一つの言葉で人生が変わることだってあるわけだしね。一行書くために何万行も捨てるわけで。そういうことの繰り返しで、それを研ぎ澄ませて日々やっていくわけで。それがいかに大事かってことは、今は本当にわかってるから。
伊藤ふみお 新しいものが好きなんですよ。新しいものって、自分の中に眠ってたもの、自分の中の気づかなかったものとの出会い、そういうことだと思う。そうじゃないと、どっかの誰かが作ったものの焼き直しになっちゃうからね。そんなの新しいものじゃない。KEMURIは、それがまだまだできるからね。20年やってきたからこそできる。20年があったからこその今を未来に繋げる為にやっている。それが今のKEMURIなんですよね。
インタビュアー:遠藤妙子
リレー・インタビュー第5回目は、KEMURIのサウンド面だけではなく、ステージ・パフォーマンスでもなくてはならない2人のサポート陣、トランペットの“ミッチー”こと河村光博、トロンボーンの須賀裕之の登場です!
河村
僕は元々、KEMURIと同時期ぐらいに活動してたPOTSHOTのメンバーだったんです。1999年から2005年の解散まで。で、(森村)亮介君が事故で亡くなった後のアルバム『CIRCLES』(2004年)に3曲参加してからの付き合いで。勿論、その前からPOTSHOTで対バンしてましたから、メンバーとは知り合いだったんですけど。だからもう長いですね。
須賀
僕は大学を出た後にフリーランスのミュージシャンになろうって、ジャズ・オーケストラのようなビッグバンドに参加したんです。そこでKEMURIのメンバーだったトロンボーンの霜田裕司さんと知り合って。2005年ぐらいですね。翌年、2006年ぐらいに「KEMURIのサポートをしてくれないか」って話をいただきまして。
須賀 KEMURIは勿論、POTSHOTも中学、高校の頃から聴いていたので。だから全然違和感なく。むしろやりたかったことですし。
須賀 嬉しいです。でも、入った頃は逆にそこは意識せず。意識できなかったって言うほうが近いかな。とにかくやることに無我夢中で。前任の、霜田さん、増井(朗人)さんといった人達の存在がデカいので、プレッシャーもありつつ。右も左もわからなかったので、とにかくやらなきゃ!っていう。
河村 KEMURIは年齢もちょっと上だし凄いなって思ってましたけど、でもバンドとしては同世代ですし、いい刺激を毎回受けて。同世代のバンドと対バンってなるとお互い「負けるもんか!」ってやってましたね。だからそんなバンドにサポートで入るのは、最初はちょっと変な感じはありました。今はもうそんなことは思わないですけど。
河村
ライバル意識もありましたけど、KEMURIは凄いっていうのは当時から思ってました。演奏もそうだし、姿勢も。POTSHOTは入りやすいスカパンクだったと思うんですよ。シンプルなことをやってたと思うし。いわばスカパンクの入門的なバンド。KEMURIはそれを一段高みに持っていってたような気はしますね。
須賀
僕が当時思ってた印象としては、僕はトロンボーン奏者なんでブラスに耳がいっちゃうんですけど、KEMURIは圧倒的にブラス・セクションが凄かったんですよね。バンド編成であれだけ速いサウンドで、でもちゃんと聴かせる。
須賀
そうそう。
河村
当時、スカパンクが出てきたばかりの頃は、ブラス・セクションの上手いバンドは珍しかったかもしれないですね。スカパンクが出てきて、スカパンクにはホーンが必要だって、バンドをやるためにホーンを始めた人も多くて。
河村
僕は小学生から。
須賀
僕も小学生の頃から。
河村 コバケンさんはレジェンドですから(笑)。若いファン、若い管楽器奏者にとっては間違いなくレジェンド。アレンジの発想とか独特なんですよ。
河村 タイプはかなり違うかもしれません。でも基本さえ合ってればなんとかなるんですよ。3人が同じようなタイプだと、またつまらないし困る。
河村 だからスカパンクといえどもいろんなジャンルが混ざって。たぶん、昔はスカパンクをやろうって思ってたのかもしれないけど、今は本当に「KEMURIがやるスカパンク」になってますよね。昔はスカパンクのスタンダードに近い曲もあったけど、最近は「KEMURIのスカパンク」っていう曲が増えたと思いますね。
河村
あるようでないというか(笑)。KEMURIは無理矢理スカパンクにしようっていうのはない気はしますね。で、それでもやっぱりスカパンクなんですよ。スカパンクって曲のあり方とかよりスタイル的なことが大きいんだと思います。楽しくてハッピーっていう。楽しくハッピーってことを大事にしてるのなら、それはスカパンクでいいんじゃないかと。でもね、最初にスカパンクをやり始めた頃、戸惑いましたよ。スカパンクを初めて聴いた時は、オーセンティックなスカとは違って速くて軽快で、凄く新鮮だったんですね。でも当時はまだ自分がやるってイメージはなかった。POTSHOTに入って戸惑ったのは、ライヴ中にジャンプすること(笑)。それはKEMURIでもそうなんですが。須賀ちゃんも戸惑ってたよね(笑)。
須賀
戸惑いました。全然ジャンプできなくて、今も上手くできないんですけど(笑)。
河村
「演奏しながら飛ぶのかよー!?」ってね(笑)。
須賀
演奏だけじゃなくて見せなきゃいけないっていう。
河村
それもスカパンクのスタイルなんですよね。突っ立って演奏してるだけじゃない。みんなで楽しむ。お客さんを楽しませるってことがとても大事なので。
須賀
それはホントに素晴らしいって思うんですけど、ジャンプは苦手ですね(笑)。ジャンプするタイミングはわかってるんですよ。そこでジャンプしてるつもりなんですけど、後で映像で見てみると変な動きしてて(笑)。
河村 打ち合わせは全くないんですよ。自分が飛びたいとこで、自分がやりたいような動きをすればいい。KEMURIのライヴをやってるとホントにジャンプしたくなるんですけど。でも大変(笑)。
河村 バラバラなこともある。コバケンさんと須賀ちゃんが一緒にジャンプする時があるんですけど、僕だけやらなかったり。ひねくれてるんで(笑)。というかね、トランペットって実は動いてたら吹けなくなる楽器なんですよ。小さいからジャンプできそうに見えるけど、ズレちゃうんですよね。サックスやトロンボーンは動いてもパッと口に戻すことができるんですけど、トランペットは小さいからそれが難しい。
河村 ですね。見せて楽しませるっていう、スカパンクを体現しなきゃ。
河村
僕は何回か行きましたね。この前、久しぶりにアメリカへレコーディングとツアーに行って。みんなそうだと思うんだけど、年齢を感じたんじゃないかな(笑)。だから若いうちにやっておいて良かったと。若いうちはどんどん吸収できるし、それがあって年をとってからも受け取れるものもあるし。若いバンドは無理をしてでも海外に行ったほうがいいと思いますよ。POTSHOTでも若い頃に行かせてもらってよかったと思いますし。
須賀
僕の場合はKEMURIでアメリカ行かせてもらうのは、この前が初めてだったんです。メンバーはみんな年上だし、とりあえずついて行こうって必死でした。僕は今いろいろ経験できて。もっと行きたいって思いました。
河村
須賀ちゃんは若いから、今どんどん吸収する時期だね(笑)。この前は1ヶ月でレコーディングとツアー。大変でしたよ(笑)。アメリカの人、ヨーロッパもそうですがノリ方が上手いですよね。ステージと客席が近いっていうのもあるんでしょうけど。モッシュとかも上手いし。ライヴはお客さんも主役ですしね。KEMURIのライヴは日本でもそうですね、お客さんが自ら楽しむ。
須賀
アメリカに初めて行って思ったのが、観に来てくださる人にはゴツイ人もたくさんいて。ゴツイ人が汗だくで踊って、終わった後に「良かったよ」って言ってくれて。僕、こんなキャラなんで、「こいつ大丈夫か?」って思われてるんじゃないかって勝手に思ってたんですけど(笑)、そんなこと全然なくて。ストレートですよね、反応が。曲ごとで反応も変わるし。聴いてくれてるんだなって嬉しかった。あとジャンプも褒められました(笑)。
須賀 「あんなに動いて吹くなんて凄いな」って(笑)。ジャンプにも自信持ちました(笑)。
河村
新作のホーンのアレンジは須賀ちゃんも数曲やってて。凄くいいですよ。基本、曲をライティングした人が指定するとこは指定したり。あとはコバケンさんだったり、今回は須賀ちゃんだったり。
須賀
僕はずっとリスナーの立場なので、KEMURIも人によってアレンジの特色が違う、霜田さんのアレンジはこういう感じ、亮介さんの感じ、増井さんの感じ、それぞれ違うんですよね。違っていながらKEMURIのサウンドになる。僕、今回、数曲やらせてもらって、勿論、曲を書いてきた人にテーマ的なことを教えてもらって曲を第一に考えますけど、KEMURIは包容力のあるバンドだから僕なりの特色を少しでも出せればと。あとベスト盤も録ったんで、過去の曲の難しさとか面白さを改めて実感したし勉強になりました。
須賀
ありがとうございます。
河村
実際、ホーンに関しては過酷な場所で録ったと思いますね。標高も高いとこで。スタジオ自体は凄くいいとこなんですよ。スタジオとスタジオの人達は最高なんです。だけど標高がね~。ちょっと無理すると頭痛になっちゃう。
河村
再結成後は、曲を完璧に仕上げる前にレコーディングに行っていて。曲のサイズとかは決まってるんですけど、細かいとこを作りながら整えたり、加えたり、削ったり。それが面白いんですね。実際の現場でいろいろ試したりできるので。その時の雰囲気も、より作品に入れられるし。曲を書いた人の中では完成形の青写真はあると思うんですけど、みんなで作っていくっていう感じが、特に再結成後はしますね。
須賀
作り上げていく感じが伝わるというか体験できるというか。僕が持っていったアレンジに対しても意見をくれたり。そうやってどんどんKEMURIの曲になっていくんだなって。
河村
昔はPMAって頻繁に使ってたと思うんですけど、今はそこまで意識せずに自然にやってるんじゃないかなと。フミオさんは、出会ってからずいぶん経ちますけど、変わってないとは思います。音楽のことを凄く掘り下げる人ですよね。アンテナが張ってるんですよ。今の音楽もどんどん聴くし。そういう、普段の感じが自然にPMAなんだと思いますし。
須賀
KEMURIって、メンバー皆さんマイペースなんですよ。でもまとまる時はガッとまとまって。そういうことがやれるのもPMAの気持ちが自然にあるからかなって。
河村
活発ですよね~。若手バンドみたいな(笑)。素直に思うのは、よくやるよってことで(笑)。いや、やれるんだからやればいいんですよね。別に年齢で抑制することはないわけで。ただ個人的にはツアー中は抑制しますけどね、飲みすぎないようにしようとか(笑)。
須賀
凄いと思います。自分より年上で、自分がその年齢になった時にできるのか?って思いますね。体力的なことだけじゃなく、音楽に対する情熱っていう。ホントにKEMURIから学んでいます。
河村
やっぱり違いはあると思います。ずっと続けていこうって思ってやってると思うし。より一本一本のライヴへの思いが強く、より貪欲になってる。そういう意識でKEMURIに向かってると思いますね。じゃないと再結成する意味はないですしね。
須賀
うん。前も結束感はあったけど、再結成後の結束感は、一人一人の覚悟があるからこその結束感なんだなって感じます。サポートの僕らにもそれを感じさせてくれるのは、僕らも凄くやる気になりますし。KEMURIからホント学んでいます(笑)。
インタビュアー:遠藤妙子
リレー・インタビュー4回目は、KEMURIの土台であるビートを生み出し、ソングライターとしても活躍、ステージでは、たまにイジラレ役(!)のタフ・ガイ、平谷庄至の登場です。
平谷 1996年ですね。平成元年、バンド・デビューで札幌から東京に出てきて、解散して、そのあとドラムの仕事をやってました。その頃のちにKEMURIのメンバーになるトロンボーン・プレーヤーの増井朗人氏とも仕事を通じて知り合って。彼とそれまでのKEMURIのドラマーが抜けるということで、僕に白羽の矢がたったという。
平谷 紙を頂いたんですよ。A4の用紙にP.M.A.のコンセプトが書いてあった。そういうテーマを作ってバンドに向かっている、凄くしっかりしたバンドなんだなってびっくりしました。でも、P.M.A.って言葉自体は僕の中にそれまでなかったけど、ポジティブに考えていけば物事はいい方向に進んでいくであろうっていう気持ちは、僕もずっと思ってたことで。それをP.M.A.という言葉に具現化してくれたわけで。だから最初はびっくりしたけど、でも自分も持ってる思いを、こう、引っ張り出してくれたというか。凄く自然に受け入れられましたね。
平谷 すぐやろうと思いました。個人的にも思うこともあって。自分の子供ができたり。KEMURIに入る頃がまさに生まれる頃で。
平谷 そうなんですよ。上の子は18です。KEMURIの歴史と一緒(笑)。ちょうど子供もできたし、その頃、自分は30歳過ぎてたし、音楽を辞めるか続けるかのどっちかに体が引き裂かれてるような時期だったんで。そこにKEMURIの話があって、やってみようって。
平谷 そうです。それまで現ちゃん(上田現 ex.レピッシュ)のバンドをやらせてもらってたりしてたのでスカはやってましたけど、スカパンクはほとんど知らなくて。まぁ、新しいジャンルでしたしね。スカパンクをやってみて、最初は、ビートも速いし冗談だと思った(笑)。それまでこんな速いのは叩いたことなかったんで。だからジャンルとしても新しいけど、僕にとっても本当に新しいチャレンジで。当時、スカパンクのバンドはみんな若かったですからね。対バンはみんな10歳ぐらい年下で。コレはヤバイぞーって事の重大さに段々気づいて(笑)。
平谷 嬉しかったですね。速いビートを叩くのは大変だったけど、自分には可能性や役割がまだまだあるってね。
平谷 スカパンクって、まぁ、ブランド(笑)。KEMURIって言えばスカパンクっていう、それでいいんじゃないかな。音を聴けばわかるようにKEMURIはバリエーションがあるんだけど、でもそれがKEMURIのスカパンクだし、スカパンクってそういうものだよっていう。別に決まりはないわけだしね。それで広がっていければいいし。スカパンクって楽しくてハッピーなものだとしたら、僕らのジャンルはスカパンクなわけで。実際、KEMURIのサウンドは、ハードコアみたいなところもあるしレゲエのようなところもある。メンバー各々がいろんな音楽をやってきて、そしてKEMURIがあるわけですから。例えば3ピースのバンドだと全員がビシッと同じ趣向のほうがカッコイイかもしれないけど、人数がいるならその幅が感じられるほうが面白いですよね。KEMURIはみんな大人だから適度な距離感がわかってたのかもしれないし。そういういいバランスでサウンドもできていったと思います。
平谷 あと曲はライヴで育っていくものだから、お客さんが育てていってる面もあると思うんですよ。お客さんの反応を受け取って、僕らは新しいものを作る。曲ってそういうふうにできていくものだと思うし、ジャンルもそうかもしれないですよね。例えばお客さんがシンガロングしてたりスカダンスしてたり、そういう絵を浮かべながら曲を作ってることもあるし。自然とそうなってるんじゃないかな。
平谷 凄く楽しいです。ライヴっていうのはオーディエンスとスタッフとバンド、みんなで作っていくものなんだってことを、KEMURIに入って初めて実感しましたね。お客さんが楽しんでくれてるっていう充実感が凄くある。みんな本気で遊びに来てる感じでね。そんなお客さんの顔が見えたら、こっちもいいライヴしなきゃって思うし、こっちも楽しくなりますよね。
平谷 ごつい人いますよね、セキュリティ(笑)。セキュリティの方々もわかってくださってるみたいでありがたいです。お客さんも、これはやっていい、これをやっちゃ危険ってことがわかってるみたいで。フミオ君はライヴの空気を作るのが上手いけど、お客さん同士でもね、ダイビングがカッコイイお客さんっているじゃないですか。お客さん同士でも学んでいくというか。ダイブの仕方、支え方。だからKEMURIのライヴってホントにお客さんも参加してる感じがしますよね。
平谷 97年の2月、アメリカでの1stアルバム『Little Playmate』のレコーディングとツアー。1ヶ月行ってたんですけど、その頃、うちの娘が7ヶ月で、帰ってきたら全然違う子供になってましたね、大きくなってて(笑)。それが僕にとって初めての海外で。何が何だかわかんない感じだったんですけど、楽しかったですね。レコーディングも楽しくて。その合間にライヴやって。いろんなところでライヴやりましたね、山の中とか。どっから人来るんだっていう場所でも(笑)。いろんなとこでやらせてもらって、アメリカ特有って言っていいのかわからないですけど、打てば響く、やればブッ飛ぶっていうノリなんですよ。こっちが本気でぶつかればお客さんも本気でぶつかってくるっていうことが、その時にわかった。それは日本でも一緒でね。思い切りやるってことが本当に大事なんだと。
平谷 一緒に生活しててしんどくないんですよね。マイク・パークのアパートにみんなで転がり込んで、雑魚寝でね。振り向けば人の足があるっていう(笑)。あとやっぱりツアーはバンドを作っていきますよね。共同生活をして、移動してライヴをやって。そういう中でバンドがタフになっていく。
平谷 ありがたいですよね。いろんなタイミングで会ってるけど、毎回新鮮な感覚があるんです。97年に日本にマイクが来たときに僕らがバックバンドやって。SKANKIN’ PICKLEの曲を一生懸命練習しましたね。マイクの曲を実際に演奏してみて、なんというか、音楽性だけじゃなく、マイクの人となりっていうか、それが肌で感じられて。
平谷 あのツアーも印象的で、本当にいろいろ教わりました。人種差別反対という重いテーマを楽しくやっていいんだ、なるほどー!って。シリアスにやらなくても伝わるんですよね。人種差別反対ってガーンって掲げて、だからこそやり遂げようって気持ちも凄くあったし。移動にしても、毎晩行われるライヴにしても、「やっぱりスカっていいよね!」って凄く思ったんですよ。上手く説明できないんですけど。楽しくてもメッセージは伝わるってことを体で実感したっていうことが大きい。音楽の力ってこういうことなんじゃないかなって。KEMURIの曲にもシリアスなテーマのものもあるし、やっていけば伝わっていくはずなんだなって、あのツアーで、なんていうか、自信みたいなものも感じましたし。
平谷 ですよね。実感したことが一番信じられる。実際にアメリカのいろんな街に言って、各々で住んでる人の人種が違ったり。白人が多い街、アジア系が多い街。そういうことも肌で感じられることが楽しいし学べる。アメリカへはレコーディングとツアーのために行くわけですが、いろんな街に行ける、いろんな人がいる、そういうことも楽しみなんですよ。
平谷 僕も怪我をしたんで、またあそこ(ステージ)に戻るのに必死でした。メンバーが亡くなったのは本当に悲しいことだけど、僕自身はリハビリして、ドラムを叩けるようにならなきゃいけない。そして次のアルバムを作らなきゃいけない。そこだけに集中して。自分はそれを成し遂げてあの場所に戻ってアルバムを作るってことが、一番大事なことなんだと。次に進むことが大事なんだと。それしか考えてなかった。あんなに集中したことはなかったですね。一日も早く退院して、やらなきゃいけないことがたくさんありましたから。
平谷 ある種の達成感はありましたね。
平谷 考えられなくなっちゃったから止まっちゃったのかもしれませんね。各々考えてたことは違うと思うんですけど、みんなで一緒にこのままやっていくっていうことが、考えられなくなったんでしょうね。たぶんKEMURIは結成の頃からある程度は大人だったので、各々覚悟があって始めたと思うし、フミオ君から言われたP.M.A.って意識も強く持ってたと思うんだけど、それをやり切ってしまったったんだと思います。
平谷 だから実は僕、解散する時に「ここまで」ってラインを引いたわけじゃないですか。そのラインまで全力を出し切ったから、再結成して新しいことをやれるのか?ってちょっと迷ったんです。でもね、解散した時のKEMURIの続きをやるんじゃなく、新しいバンドとしてのKEMURIをやろう、そう思って。
平谷 ですよね。滅多にないですよね、この年齢で新しいことをやれるのって。AIR JAMの出演が再結成のきっかけで、AIR JAMでは僕、メチャメチャ緊張したんですけど、お客さんが凄い数で舞い上がっちゃって(笑)。AIR JAMのためだけじゃなく、その先をやろう、やるからにはちゃんとアルバムを作って、長くやっていきたいってフミオ君が言って。前より良くないとダメだし、焼き直しみたいなのは意味ないし。だから各々、更に覚悟を持ってKEMURIをやってると思うし、そしたらバンドの雰囲気がとてもいいんですよ。コミュニケーションも昔よりとるようになったし、言い合ったりもする。楽しいんだけど、緊張感を持ってやってますね。凄くいい雰囲気。あ、でもビートは更に速くなって大変ですけど(笑)。
インタビュアー:遠藤妙子
リレー・インタビュー3回目は、ステージではサックス・プレイだけでなく、コーラス、ジャンプもこなし、縦横無尽に走り回るパフォーマー、そして物販会場でのファンとのふれあいもお馴染みのジェントルマン、コバヤシケンの登場です。
コバケン レコーディングは大変でしたね、新曲の場合、譜面を追って、頭でいろいろ考えながら演奏してると、おろそかになってしまう部分も多くて、、、身体に入るまでに時間がかかるタイプなんです。
コバケン 1ヶ月ぐらい。そのうちの20日間が録音で10日間がツアーで。
コバケン 新作は大変でしたけど、でもベスト盤のほうはライヴでやってる演奏って感じなんで、そこまで手こずらずに。ただやっぱり日本のスタジオで準備して決めてても、アメリカのスタジオでアレンジが変わったり。あとホーンって声と近いとこがあるので、その時の自分の状態とか機嫌が音に出ちゃう。
コバケン 歌のメロディに重ならないようなアレンジにしてるんですけど、間奏のホーンで歌に繋がっていくようなフレーズ、あと歌詞。フレーズと歌詞の辻褄が合うか、しっくりくるかっていう。明るいメロディに意外とヘヴィな歌詞が載っていたりすることもあるんで。あまりにあっけらかんとしたフレーズだとね。明るいけど、こう、深みのあるフレーズにしようと。難しいですけどね。
コバケン だからホーンであっても歌詞は当然読むし考えますね。KEMURIに入る前は歌詞をあまり気にしなかったんです、リスナーとしても。あの、KEMURIに入るときにフミオさんが、“ポジティヴ・メンタル・アティテュード”っていう言葉を教えてくれて、「KEMURIはP.M.A.を中心に置いて、自分たちに向けても、聴いてくれる人もポジティヴにしていくようなバンドでありたい」と。それでね、何を歌ってるのか、どういう思いがあるのか、歌詞を気にするようになりましたね。
コバケン そう。それまで知り合いではなくて。バンドに入るかどうかって話をした日に、楽器のことや好きな音楽とかの話の前に、まずP.M.A.の話をして。「P.M.A.を理解してもらいたい」って。びっくりしましたよ、そういう話が最初で。
コバケン 素晴らしいと思いました。ただ、頭で理解するものじゃなく、本当に理解するのは活動しながらなんじゃないかって、後に思うんですけど。
コバケン 僕、TAKEO KIKUCHIの洋服ブランドの社員だったんです。かなり厳しいお店に配属になって、コレはストレス発散の意味でも趣味を持たないとダメだなってサックスを始めたんです、23歳の頃。僕はJB、SLY、P-ファンクなどのブラック・ミュージックや日本だとスカパラやスリルが好きで。管楽器が入ってるバンドが好きだったんですね。それでやってみたくて。TAKEO KIKUCHIに入社したのも、スカパラやスリルってスーツを着てて、メンバー各々でデザインの違ったスーツで、カッコイイなって思ったら、デザインのクレジットにTAKEO KIKUCHIってあって、それで入社したんです。
コバケン そうですね。カッコイイって思ったものが繋がっていたっていう。
コバケン インストバンドの経験はありました。管楽器だけ10人以上集まってストリート・ライヴとかはやってましたけど。渋谷の街で大ユニゾン大会(笑)。だいたい平日は一人で仕事終わりに新宿公園とかで吹いてました(笑)。ある日、練習してたらおじさんが声をかけてきたんですよ。「1曲やってくれ」って。チャーリー・パーカーをやったら1万円くれたんです。「お金くれるんだー」って嬉しかったんです。そしたら別の日に別の人が「君はプロか?」って声かけてきて、「全然違います」って言ったら、「まだまだだけど音自体はいい線いってるから、本気でやってみればいい」って。それがきっかけに本気で音楽をやってみようと思って会社をやめました。音楽関係の人との繋がりもちょっとできて。あ、KEMURIに入る前にCOKEHEAD HIPSTERSを手伝ってたことがあるんです、ほんの少しですけど。ライヴを4回ぐらい。だからCOKEHEAD HIPSTERSで最初のAIR JAMに出させて頂いてるんですよ。で、そうしているうちに友達を通じてフミオさんからサックスを探してるって連絡があり。実はKEMURIのことはほとんど知らなかったんですが、フミオさんとミーティングした後に帰宅して『Little Playmate』のCDを聴いて是非やりたいって思いましたね。
コバケン 渋谷のタワーレコードの中のタワーカフェで待ち合わせして。どういうビジュアルの人か知らなかったし、パンクの人だと思ってたからそういう感じの、革ジャンとか着てる人かと思い込んでたら、アウトドアな感じの服に精悍な顔つきな人が店に入って来て。それがフミオさん。丁寧に挨拶されて、パッと見の存在感と迫力があって。話し方にも内容にも力と思いの強さを感じました。もう次のライヴが決まってたんですね。確か1998年の2月11日にタワーカフェで会って、2月14日にスタジオ入って、3月3日に恵比寿でライヴがあって、そのあとすぐにアメリカで2ndアルバム『77days』レコーディングとツアー。だから僕の初ライヴは恵比寿で、2回目のライヴがシアトル(笑)。曲を覚えるのが大変でした(笑)。
コバケン それがめちゃめちゃ楽しかったんです。そんなに人見知りするほうでもないしメンバーの中にもスンナリと入っていけたと思います。メンバーのみんなもすごく良くしてくれて、でも驚くことばかりで。サインを求められたのも初めてのことで。サインなんか考えてないから小学生の頃に考えたサインをして、それがそのまま今も僕のサイン(笑)。
コバケン そう。人種差別反対のメッセージに賛同したスカバンドばかりのツアーで。シリアスなテーマのツアーだったけど、マイク・パークを中心に集まってきたバンドだから、みんなピースなんですよ。どのバンドもハッピーで親切で、ファミリーみたいな感じでツアーして。いろんなお客さんが踊ってる姿を見て、音楽は人種や性別、年齢を超えて共有できるって実感しましたね。シリアスなメッセージをシリアスにやらなくても、踊ったり体感することによって伝わるものなんだって。ただ僕、凄い失敗をしてしまって。僕はオートバイが好きでバイカー・ブランドのTシャツを着てたんですけど、そこにSSってマークがあって。それはたまたまそういうマークを使ってただけだと思うんですけど、SSって白人至上主義のマークでもありますよね。当時、僕はそれを知らなくて。マイクに「このツアーで着るべきTシャツじゃないな」って言われて。失敗したって思ったけど、そこで教えてもらって絶対に忘れないですよ。だからあのツアーは、楽しい中にもいろいろ学ばせてもらいました。
コバケン サウンド自体は楽しいけど内包されてるものがあるというか。最初にフミオさんと会ったとき、「いつ終わっても悔いがないように、いつも今日が最後のライヴのつもりでやれますか?」って言われて。強烈だなぁって思いましたよ、最初にそういう言葉。今でもその気持ちは忘れてません。KEMURIは後に交通事故があって、そして一回解散したじゃないですか。僕は解散したくなかったんですね。でも今思えば一度解散した事も良かったんだって『ALL FOR THIS』が出来た時にそう思えたんです。KEMURIが解散した後、僕はラーメン屋で働いてたんです、店を持ちたいと思って。働いていて、自分ではKEMURIの頃、のぼせ上がってはいけないって常に思っていたつもりだったんですけど、どっかでのぼせ上がっていたんでしょうね。普通に仕事をやってると、自分の存在を誰かから喜んでもらう事がこんなに大変なんだと…。音楽って、バンドってそれが何倍も実感できるんです。それを、人に喜んでもらえているってことをいい方向に持っていこうとはしてたんだけど、どっかで甘えてた。KEMURIが無くなって、普通に仕事を始めて、改めてKEMURIと、そして自分を見つめることができて。P.M.A.をより実感したというか。辛いことがあっても前向きでいこうってね。
コバケン そうですね。
コバケン フミオさんと8時間話をしました、ファミレスで。いろんな話をしましたね。今までのこと、これからのこと。一回解散した教訓。なかなかないですよね、一人の人と8時間話すのって。フミオさんと話す前にT君とも会ったんです。T君は僕がKEMURIに入る前に脱退してたから、一緒にはやってなかったんですね。T君と、何故KEMURIは解散して 何故またこれからみんなで始めようとしているのか、どんな気持ちでどんな立場でKEMURIをやっていくのかとか、何のために音楽をやるのかって事も2人で色々話しましたよ!
コバケン かもしれないですね。言いあったとしても、それはいい方向にしていくための言いあいだってことは、メンバーみんなもわかってますから。
コバケン 覚悟はありますね。あの、社会に出ると子供の頃に教わった正しいことが、通用しないこともあるって知るじゃないですか。それをみんな消化するんでしょうけど、僕は消化できなくて、苦しくて。音楽は、なんていうか、僕にとって子供の頃に教わった正しいことであり、素直な気持ちを出せるんです、喜びも悲しみも。KEMURIのサウンドは明るいけど、そこにはいろんな感情がある。いろんな感情を受け止めてくれるバンドで。だから心が解放されるんですよ。本当に今のKEMURI は奇跡的な再結成だなって思うんです。だからいつKEMURIが無くなっても悔いのないライヴや音源作りにして行きたいと。だからこそKEMURIをやっていきたいし、リスナーの人達と長く共有していきたいですね。7月に出る新作の中に、僕にとってまさにそういう曲も入ってます。
コバケン 『Little Playmate』が好きなんですよ。自分が加入する前の。なんていうか、憧れみたいな気持ちがいまだにあるんです。
インタビュアー:遠藤妙子
リレー・インタビューの第2回目は、KEMURI初代ギタリストにして、2013年の復帰後は今のKEMURIサウンドになくてはならないソング・ライターとしても活躍する田中‘T’幸彦の登場です。
田中 そうですね。レコーディング・スタジオの機材も新しいのがあって。スタジオはいつもと同じとこなんですが、毎回なんかしら新しい機材が用意されてるんですよ。それを使わせてもらって。
田中 それも確実にそうですね(笑)。自分達が使う前にまずはKEMURIでっていう(笑)。「コレで弾いてみて」ってなんかしら新しい機材を持ってきますからね。僕らも面白いんですけどね。日本に入ってきてないメーカーのアンプがあったりして。まぁ、サスガに今回は2枚分のレコーディングだったんで、そこまでいろいろ試すことはできなかったけど。
田中 ハードでしたね。どうなるかと思ったけど、でも思ったよりトントンといって。
田中 そうですね。ホントに。97年の1stアルバム『Little Playmate』のレコーディングの後にツアーして。僕はそれ以来ですから。懐かしかったですね。当時録音したスタジオも泊まったとこもまだあったし、当時、食べたブリトーの店もあって。当時はマイク・パークのアパートに泊まったんですけど、マイクの家の近くのラーメン屋さんがまだちゃんと営業してて。「この味! この味!」って(笑)。町並みは変わってるんだけど店とか建物とかは結構残ってて。懐かしかったですね。マイクや当時のエンジニアとも久しぶりに会ったし。タイムスリップっていうか、約20年近くの時間を飛び超えた感じで。不思議な感覚でしたよ。
田中 はい。
田中 僕ね、あんまりそういうの気にしないんですよ。お客さんが何人でも関係ないと思ってる。少ないからどうこうじゃないし、多いからちゃんとやろうでもないし。やることは一緒ですよね。だからお客さんが増えてたからといってそんなに関係なくて。どこでもあんまり変わらないっていう。
田中 フミオさんがKEMURIの前にやってたPaninoってバンドがあって、そのバンドにいた人が僕のギターの師匠みたいな人だったんです。そのギターの師匠が体調を悪くして、僕がPaninoに入ることになって。そこでフミオさんと初めて会った。KEMURI結成の前の1993年ぐらい。当時のフミオさんはモヒカンでしたよ(笑)。Paninoはスカとか、あとファンクやレゲエをやるバンドで。しばらくして解散して、新しいバンド始めるってことで声かけてもらって。それがKEMURI。
田中 スカパンクって最初は全然馴染みなくて。出てきたばかりのジャンルだったし、スカパンクって言葉自体が日本になかった時代でしたからね。それで、アメリカには新しいシーンになってるって、LESS THAN JAKE、SKANKIN’ PICKLEとかいろいろ買って。「おぉ、こんな音楽か!」って。スゴイなって思いましたね。カッコイイと思った。
田中 そうですよね。それも面白かったですね。スカパンクは明るいですよね。凄く明るい気持ちになる。レゲエにも通じるかもしれないけど、太陽に近づく感じかな。そういうのがスカパンクにはありますよね。
田中 最初からありましたね。フミオさんが掲げて。P.M.A.ってバンド名かと思われるんじゃないかっていう(笑)。バンドがP.M.A.って掲げること、面白いと思いました。いい言葉だし。こんなに長い間言い続けるとは思わなかったけど(笑)。やっぱりいい言葉だから言い続けられるし、言い続けるべきだと思いますね。
田中 レコード会社がロードランナーで、海外のレーベルですからね。日本だけでリリースされるってわけじゃなく海外でもリリースされて。だからそういう印象があるんでしょうね。ロードランナーからのリリースは、僕もギタリストだから速弾き系のギタリストも好きで。ポール・ギルバートもロードランナーで。一緒のレーベルっていうのは嬉しかったですね。
田中 僕は思ったより弾いてますね(笑)。
田中 僕、スカパンクを初めて聴いた時、スカに何かを足して新しいものを作っていく音楽だと思ったんです。だからスカパンクならではのマナーにこだわるんじゃなく、むしろそのマナーを崩すというか、新たに作るというか。
田中 そうそう。そうなんですよね。スカパンクって融合していく音楽ですよね。いろんなものが組み合わさって。
田中 もちろんです。
田中 アメリカのお客さんは、ぶっちゃけるとどんな音楽でもノリますね(笑)。リズムがあるとノルんですよ。日本だと名前を知らないバンドが出てきたら、まずどんなバンドか探るような感じで観るような気がするんですが、アメリカだとリズムがあるとノッてる。血なのかなぁ。でも日本人もお祭りの祭囃子でワクワクしてたわけで。アメリカの人は、昔からのそういう感覚がロックに続いているのかなって思いましたね。あとはやっぱり機材とかが日本ほどちゃんとしてなくて。当時もちゃんとしてなくて、今回もちゃんとしてなかったですね(笑)。そういうものなんでしょうね(笑)。
田中 当時はメンバーが交代で運転してましたね。そうだ、僕が運転してた時、どっかで道を間違えたのかNASAの入口に行っちゃって。警備員がいてヤバイヤバイって(笑)。あとメキシコとの国境が近いとこに行ったんでメキシコまで遊びに行って。タコス食べてアメリカ戻ろうとした途中、高速に椅子がポーンって置いてあって(笑)。
田中 わかんないんですよ(笑)。なんかよくわかんないこともいろいろありました(笑)。
田中 聴いてましたけど、そんな真面目に聴いてるわけじゃなかった(笑)。ライヴはたまに遊びに行ってたんです。だから付き合いがなくなったわけじゃなく。津田さんのバンドも手伝ったりしてたし。
田中 いい曲だなって思いましたね。それは今でも思いますし。
田中 フミオさんから「またやるんだけど」って連絡をもらって。その前にフミオさんのソロで曲を作ったり手伝ったりしてたんで。でもね、最初は照れくさいっていうか、妙な空気でしたよ。KEMURIのメンバーとはライヴも観に行ってたし、ちょこちょこ会ってはいたんだけど、一緒にスタジオに入って、なんて言うんだろうな、とにかく照れくさい(笑)。とにかく不思議な感じがしましたね。昔、自分が作った曲、自分が弾いた曲を、時を経てまた弾いてることも不思議な感じだし。
田中 そうですよね。僕がいない間も生き続けて、お客さんの心の中に曲がいてくれてた。あ、あのね、店の名前にもなってるらしいんですよ、「deepest river」が。
田中 解散ツアーを観てくれた人が、「この曲が好きで自分の店の名前にしよう」って。僕は解散ツアーにはいなかったわけで。凄く嬉しいし、でもやっぱり不思議な感じでしたよ。
田中 もちろん。最終日に観に行きました。その解散ツアーを観に来てくれてた人が、僕がかつて書いた曲を店の名前にしてくれて。音楽って繋がっていくんだなぁって。ちょっと話が飛びますけど、当時の「New Generation」はデモの時に作ったギター・ソロが今もまんまですから。アレンジが全く変わってない。デモで弾いて、『Little Playmate』で弾いて、今度のベスト盤で弾いて。それもまた不思議な感じだなぁと。同じギター・ソロでも自分は歳もとって何かが変わってるのかもしれないけど、でも全く変わらないアレンジですからね。不思議な感じですよ、何度も言いますが(笑)。「Ato-Ichinen」も「Along The Longest Way...」も20年近く前も弾いて、今も弾いている。『Little Playmate』を録った時のギター、クリーン・ギターは当時そのスタジオのギターを借りたんですよ。そのギターが今回もあった。「このギター、俺が弾いたやつだ!」って。
田中 マイク・パークと僕は同い年なんですよ。誕生日も一週間違い。ただ同世代の仲間っていうより、マイクはやっぱり凄いからリスペクトの気持ちのほうが強いです。凄い人です。『Little Playmate』の「Don’t know」はマイクが作ってきた曲で、マイクがアコギ一本で歌ってる姿を見て凄いカッコ良くて。「カッコイイなー、この人」って。もうそこからリスペクト。SKANKIN’ PICKLEも大好きだし。そういう人と20年経って一緒にやれる。嬉しいですね。
田中 やっぱりね、若い人にも観てほしいですね。僕らが初めてスカパンクを聴いた時のワクワクした感じを体感してほしいです。
田中 うーん….。
田中 余計難しくなってきたな(笑)。これから長く続けるバンドってことは間違いないですね。スカパンクも音楽的に可能性のあるものだと思うし。これからもいろいろチャレンジしていこうと。KEMURIはチャレンジをどんどんやれるバンドなんです。
インタビュアー:遠藤妙子
リレー・インタビューの第1回は、KEMURIの結成メンバーにして、長年作曲とその独特のフレーズを駆使してKEMURIサウンドの屋台骨を支えるベーシスト、津田紀昭(ツダノリアキ)からのスタートです!
津田 あのね、ジョー・アルコールから新しいCDがうちに届いて。去年出した写真集みたいなのと一緒に送ってくれて。見ました? シド・ビシャスの写真集みたいで面白かった。今日、持ってこようかと思ったんだけど、ネタとして(笑)。忘れちゃったみたい。
津田 今も仲いいし、ハードコアのバンドからライヴのお誘いも有るんですよ。全然ジャンル違うけどそういう場所にいても俺は居心地がいいんだよね。
津田 ですよね。Aggressive Dogsはゴリゴリですからね。
津田 まずはフミオ君とひょんなことから仲良くなったんです。下北沢のバイオレント・グラインドってスケート・ショップがあったんだけど、そこに俺はいりびたってて、そこでライダーズのローディーをずっとやってた越山君って人とつるんでて。その流れでフミオ君と仲良くなって。
津田 音楽以前に知り合って、友達になって、遊ぶようになって。そうしてるうちに、僕がAggressive Dogs辞めるってなって九州に戻ったんですよ。九州のボーダーラインってレコード屋でバイトを始めたんですよね。その頃、ハイスタとか出てきた頃で、メロコアが盛り上がり始めた頃。丁度、俺もメロディのあるハードコアがやりたかったんですよ。レコード屋にいるから毎日のようにいろんなレコードが入ってきて聴きまくって。自分でメロコア的な曲を書き溜めて。そのうちスカコアやスカパンクも出てきて、「コレはカッコイイ」って、もともと作ってた自分の曲をスカパンクのアレンジで作り直したりして。レコード屋で働きながら一人でそんなことしてた。だからバンドはやりたかったんですよね。フミオ君とは連絡は取り合ってて。そしたらフミオ君が、「アメリカに行くから音源を持って行きたい」って。それで俺の曲にフミオ君が歌詞を書いたものを録音して。だから最初は「バンドやろうぜ」って始めたんではなく、フミオ君がアメリカで現地のレーベルに渡すための音源として作ったっていう。
津田 ですね。フミオ君がアメリカ行った時、散々決心して行ったんですよ。向こうでやっていくつもりで。でも思ったより早く帰って来て(笑)。たぶん、向こうでライヴをたくさん観て、やっぱり自分もバンドをやろうって思ったんじゃないかな。
津田 遅咲きだからね~(笑)。自分達では全然そんな意識なかったんですよ。でも対バンがめっちゃ若かったですよね~。
津田 29才ぐらいですよ。
津田 勇気を与えてたなら良かったです(笑)。実際、KEMURIやるってなった時、どうしようかって思ったんですよ。Aggressive Dogsを一回辞めて地元に帰ってから、また、なんかのタイミングで再びDogsをやりだして。KEMURIをやろうってなった時、両方やるのは厳しいと思ったし、この年齢で新たに始めることに正直迷った。でもとにかくもう一度東京に行って、KEMURIの初期のドラマーでもあるBack Drop Bombの(有松)益男の家に居候させてもらって。ずっと居候してたから段々気まずくなっていくんだけど(笑)。それが29才。30まで、それこそあと一年だから意を決してKEMURIをちゃんとやろうと。
津田 俺はスカコアやスカパンクが若い奴だけの音楽とは思ってなかったんですよね。LESS THAN JAKEとかにも影響受けたし。だから全然気にしないでやり始めたら、対バンがみんな10才近く違うのには驚いたっていう(笑)。
津田 楽しくてハッピーですよね。それが新鮮で。ちょっと話がズレるけど、KEMURIは最初はアジアンマンってレーベルからコンピとしてリリースして。その後、ロードランナー・ジャパンと契約するんだけど、ロードランナーに日本支社ができるっていうんでね。ロードランナーってメタルやハードコアが多いレーベルで、そういうとこからスカパンクのKEMURIが出るっていうことが俺は嬉しくて。新鮮じゃないですか。MadballとかがいるレーベルにスカパンクのKEMURIがいるのって。でね、俺はKEMURIの前はゴリゴリの空間でやってたほうが多かったから、ハッピーな空間でのライヴが新鮮で、同時に全く違和感なくて。ハタから見たら「津田君がこんなバンドやってるなんて!」って思った人もいるかもしれないけど、自分では全く違和感がなかった。自分で曲も作るし、ポップな中にもパンクロックやハードコアを意識して作ってたし。まぁ、俺は流行りものも好きだから、ヒップホップにハマってた時期もあったし、USハードコアにハマってた時期もあった。軽いんですよね(笑)。スカパンクって、いろいろ取り入れられる音楽でもあったんですよ。だから自分の中にあるハードコア的要素は意識して。スピード感とか曲の展開とか。そういう試行錯誤はしてましたね。
津田 そのへんはどうだろう? たぶんフミオ君がアメリカ行ってる時にLESS THAN JAKEとかSKANKIN’ PICKLEとかと一緒にいて、凄いハッピーな雰囲気のライヴに影響受けて、アメリカからフミオ君が、その雰囲気を学んで持って帰って来たっていう。
津田 ありましたね~。
津田 はいはい。やっぱりライヴはセキュリティも含めてみんなで作るものだしね。
津田 ロードランナーと契約したからっていうのも大きいでしょうね。海外のレーベルだし。俺、KEMURIに入るまで飛行機って一回しか乗ったことなかったんですよ(笑)。東京と九州の一回しか。だから海外に行ったのもKEMURIになってから。アメリカ行く時は盛り上がりましたね。「アメリカでレコーディングできるんだー!」って。
津田 なんだろうなー。みんな言うことかもしれないけど、日本だと音響や機材がちゃんとしてるじゃないですか。海外に行った時はライヴハウスじゃない場所、パブとか体育館みたいな場所でやることもあるし。一度、対バンからベースアンプ借りるってことになってたんだけど、その対バンが来なくて、僕たちのライヴに間に合わなくて、ベースアンプなしでやりましたね。ラインの音だけでやったりして。臨機応変にやらないとできないっていうね。戸惑いましたけど、「やっちゃえー!」って開き直って。
津田 なりますねー、移動も長いし。でも楽しいですよ。いろいろありますけどね。
津田 そうです。
津田 KEMURIにそういう姿勢みたいなものがあることを俺が自覚したのは、SKA AGAINST RACISMツアーでアメリカを廻った時ですね。あのツアーのテーマは「人種差別反対」って重いもので、そのメッセージを持ったバンドが参加してツアーに行って。重いテーマでありながら楽曲はポップでハッピーに表現するバンドばかりで。なんていうんだろう、重いテーマではあるけど、「ここでは楽しもうぜ」っていう。重いテーマを持っていても、楽しくやれるんだよっていう感じがして。
津田 うん、そうなんだと思います。「人種差別反対」というテーマを明るい雰囲気のスカバンドだけでツアーをする。そういうライヴのやり方に、俺はびっくりしたし、感動したんですよ。それがKEMURIの土台みたいなものだって、その時に感じて。だから「白いばら」もね、ああいう曲ができて良かったなと。
津田 ショウジ君もケガして入院したし、でも休止になったけど解散するわけではなかったので。曲を作ったりしてましたね。お酒を飲んでボーっとしている時間も少なくはなかった。あんな事故になるとは思いもしなかったし。でもね、「白いばら」のような曲ができて、やっぱりKEMURIだからこそ出来たんだなと思う。
津田 CDも売れなくなったし業界自体が低迷して、スカパンクも全然だったし。ケムリ自体も厳しい状況ではありましたね。で、解散になっていくんですけど。みんな各々、自分が好きな音楽を見つめたいっていうのもあったかもしれないな。
津田 メンバー全員が曲を書くし、すると各々のカラーが出るし。そしてKEMURIのサウンドにも幅が出る。各々の曲を尊重してますよね。
津田 うん。だから自分の好きな感じで曲を作っても、やっぱりKEMURIってことを考えて作ってるし。再結成してからも変化していってるもんね。変化して進化してる。今度の新作は空気が凄くいいんだよね。統一感があるっていうだけじゃなく、自由で。再結成後に、新たにまたKEMURIの空気ができてきた気がする。
津田 特に変わってはないと思う…。Tはステージでも度胸があるから昔よりお客さんがたくさんいる前でライヴしても動じないんだよね。俺より全然肝っ玉が太いと思う(笑)。
津田 KEMURIってバンド名もP.M.A.もフミオ君が出してきたもので、やっぱり自分の世界をしっかり持った人。説得力があるんだよね。年齢は一つしか変わらないんだけど、貫禄がある(笑)。兄貴って感じ。全てわかってる感じでね。難しい面もあるんですが(笑)。あのね、ケンカするんですよ、音のことで。昔より今のほうがケンカしてる。昔はケンカもできない時期があったんです。今はケンカがちゃんとできる。どんなに言い合いしても、続けるための言い合いだからね。
津田 20年間で一番いいかも。いろんなものが削ぎ落とされたっていうか。ギスギスしてないしね、楽曲もバンドのムードも。解散も経験してるし。解散で気持ちをリセットすることができたのかもしれない。
津田 ホントに凄いメンツですよ。今では知らない若い人もいるかもしれないけど、あの楽しさ、あのタフな感じを是非とも観てほしい。スカパンクが若い人もそうじゃない人も楽しめるものだって、やっぱり伝えていきたいですしね。
インタビュアー:遠藤妙子